「とらわれ人」草稿(357頁〜370頁)

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 あなたがたの、いわゆる科学文明なるものが明らかにしたというところのも
のによると、人間の祖先の祖先は大自然から自然発生した。自然発生したのは、
自然発生する条件が大自然に存在していたからである。そして生き延びた。生
き延びたのは、生き延びるのに適していたからである。生き延びるのに必要な
食料も環境もすべて天然に備わっていたからである。そして子孫を残した。そ
の子孫もまた生き延びた。生き延びるのに適していたからである。その子孫も
また子孫を残した。子孫を残せるようになるまで育つのが快く、子孫を残すの
が快かったからである。その子孫もまた子孫を残した。子孫を残せたのは、食
料も生存に必要な環境もすべて大自然に備わっていたからである。大自然で生
き延びる能力が天然に備わっていたからである。その子孫もまた子孫を残した。
生きているのが快かったからである。食の喜びと恋の喜びと性の喜びと子育て
の喜びとを持っていたからである。人間の祖先はそのように生きてきた。

 それがどうしたことか。生きてゆくのは、辛く、苦労が多く、大変なことで、
それが人間の本質であるが如きの呪縛が広まっている。それが当然であるが如
きの呪縛がある。苦労で大変ならば、自然発生しなかったかあるいは淘汰され
てしまったはずである。苦労で大変な社会とそのような呪縛を広めて来たから
そのとおりになっているに過ぎない。

 生きてゆくのは辛く、苦労が多く、大変なことだと宣伝している人々がいる。
その人々の言うことを信じて、苦労するのが人間であると思い込んでいる人々
がいる。そう思い込まされたから、そう思っているにすぎないのに。そういう
社会概念を作ってきたから、そうなっているにすぎないのに。これらの片棒を
かついできたのが科学であることを、科学自体が気付かせようとしている。苦
労で大変なら自然発生しなかったか、自然発生しても長続きしなかったはずな
のに。(技術は、自然の産物の独り占め(収拾)を可能とし、他の人の分まで)

 人間は労苦あるいは煩悩を背負って突然発生したわけではない。自然発生し
た。苦労で大変なら自然発生はしなかった。生存に必要な物は自然に備わって
いた。だから自然発生した。それが当然だった。何の不思議もなかった。その
当然が苦労するのが人間であるかのようにくつがえされる。無理をし思い悩む
のが人間であるかのようにくつがえされる。そしてそれが当然とされるに至る。

 そして人間は育つ過程でこれらのことを教え込まれる。苦労し、無理をし、
思い悩むのが人間であると。その方が人間らしいと。ストレスがたまるのが現
代社会では当然であると。ストレス発散法を考えるのが当然であると。ストレ
ス発散場所を増やすのが行政であると。悩み事相談所を増設するのが行政の当
然であると。ストレスがたまり悩むのが当然で、ストレスを発散し悩み事を解
決するのが人生の必然であるかのように教え込まれ、そう錯覚してそれを当然
であると。  (これらを先導(煽動)してきたのは、ある人々の我欲である)

 だがしかしよく考えてみたまえ。人間はストレスとか悩みごとを持って自然
発生したわけではない。そのような社会を作ってきたからそのようになってい
るにすぎない。人間の錯覚がそのような社会を作ってきたにすぎない。あげく
の果て錯覚を繰り返す。ストレス解消法、悩み事相談所を充実すればすべてが
解決すると。だがしかしよく考えてみたまえ。それらが一時しのぎであること
を。何の根本的解決にもなっていないことを。

 ストレス、無理、悩みを当然であると考えていたら、これらの図式はいつま
でたっても繰り返され、解決される事がない。そもそも当然でないことを当然
としていることがおかしい。そのことに気付かぬばかりか、さらにさらに錯覚
を繰り重ねている。あなたがたはこのことに気付かねばならぬ。

 やがて人々は心の満足という実体のないものを求めだし、心が満足しないの
は国のせいだと言い出すであろう。心を満足させよと国に言い出すであろう。
心を満足させてくれよと国に言い出すであろう。実にあわれな。

 そもそも、人間がごく自然に生きられる大地が、人間が住むにふさわしい大
地である。何の工夫もせずに生きられる大地だけが、人間の大地である。かつ
て人間は、住むに適した大地に、住んでいた。自然発生した大地に、住んでい
た。そこには、自然の摂理としての充分なる環境があった。かつて人間は楽園
に住んでいた。そう、楽園に住んでいたのである。

 が、『生めよ、増えよ、地に満ち、万物を治めよ』をよしとした人間は楽園
をはみ出した。楽園を離れ、生存を始めた。これらの大地は、工夫をしなけれ
ば、生きて行くのに適さない。工夫を続けなければ、生きて行くのに適さない。
無理をしなければ、生きて行くのに適さない。傲慢を正当化しなければ、生き
て行くのに適さない。自然に対して、他の動植物に対して、他の人間に対して。
【治めるとは本来、慈しむということであって、征服し支配することではない】

 楽園から離れた人間は、自然から搾取しなければ生存できない。自然の摂理
以上のものを搾取しないと、生存できない。

 楽園から離れ、農業生産をよしとし、それを糧として、生存し始めた人々は、
自然の大地を我が物とし、圧迫し続けなければならない。
 楽園から離れ、工業生産をよしとし、それを糧として、生存し始めた人々は、
自然の大地を我が物とし、搾取し続けなければならない。
 楽園から離れ、商業貿易をよしとし、それを糧として、生存し始めた人々は、
自然の圧迫・搾取を、否応なしに前進させなければならない。

 兵器産業を糧とする国家は兵器を、科学技術の進歩を糧とする国家は科学技
術の進歩を、それぞれ売り込まねばならない。あげくの果て、楽園をも壊した。

【生み、増え、地に満ちた人間は、地球の皮膚病、皮膚がんに他ならない】

 自然から離れ、科学技術の進歩をよしとし、糧として生存し始めた集団は、
進歩を続けなければ、糧がなくなる。研究を担当する人は研究を、開発を担当
する人は開発を、それぞれ続けてゆかなければならない。そのような人工的組
織を作りそれの運用により得られるものを生活の糧としている以上、やめるわ
けにはいかない。やめれば集団組織は破壊し、破壊すれば多くの家族が困る。

 緑を破壊し、自然を破壊することをよしとし、糧として生存を始めた集団は、
それを続けなければ、糧が無くなる。そのような人工的組織を作りそれを生活
の糧としている以上、やめるわけにはいかない。それを続けてゆかないことに
は生活に困る。多くの家族が困る。
 それもこれも、あわれである。

 これらの集団は必然的に科学文明を進歩させ、緑を破壊し、地球を破壊せね
ばならない。文明公害はかくて進むのである。公害文明はかくて進むのである。

 あなたがたよ、あなたがたの苦しみはよくわかる。かわいそうに、あなたが
たは、麻薬中毒になってしまったのです。「進歩という麻薬」の中毒になって
しまったのです。「開発という麻薬」の中毒になってしまったのです。まさに、
麻薬中毒と同じです。いったん味を知ったが最後、それは中毒化するのです。
切れると苦しくなる性質を持っているのです。苦しまぎれに摂取すると、中毒
症状はさらにひどくなるのです。そして苦痛と苦悩に喘ぎ、頭が狂い、幻覚に
とらわれ、あてどなくさまよい、妄想にとらわれ、さらに麻薬を求め、なりふ
りかまわぬみさかいのない横暴の限りをつくすことになるのです。

 このあやまちは 緑を破壊し 自然を 地球を 痛めつけてきた
 あなたがたは頭にたかるシラミである
 そして増え過ぎてきた
 頭髪が抜け落ち住めなくなるであろう
 あなたがたは寄生虫である
 そして増え過ぎてきた
 自然の体調が狂い共に苦労するであろう
 あなたがたは自然の反乱分子だ
 がんだ がん細胞だ
 自然が死滅し生存できなくなるであろう
 【ある種の人々は地球生命体のがん細胞なのです】

 ハゲ頭は夏暑く冬寒い。水が流れ落ち乾燥する。地球全体がハゲて行く。
 やがて汗も出まい。息も出来まい。ああ、地球が腐食して行く。
 鉄がサビるように、サビて行く。

 この犯しつつある罪をあなたがたは「人間は進歩する動物であり、進歩する
のは必然である」として自己弁護し、欺き、問題点をすりかえ、子供を騙す。
何も知らない子供を騙す。子孫の片時の生存のため、あるいは自分自身の片時
の保身のため、そうせざるを得ない。わかっているのにそうせざるを得ない。
そうせざるを得ない悪循環に陥ってしまったのである。かくて、親は子に、企
業は社員に、国家は国民に、勉強々々、進歩々々、開発々々と思い込ませる。
子供はこれらの為の家畜が如きに調教され、労働市場となる。女性は社員は国
民は、生きがいとか、創造性とか、求められる人間像とかによって、けしかけ
られる。さらに情報化社会が、競争原理が、自由化が、これに拍車をかけ加速
する。そして悩み、狂い、自滅の道を辿る。それもこれもあわれである。
【人間とがんの相違は、自分自身ががんかもしれないと、気付くか否かです】

 余りにも急激な科学文明の進歩は、親子関係を破壊し、孤独な人々を作り出
した。その昔生存手段は、親から子へと徐々に受け継がれた。子にとって親は
衣食住を直接与えてくれる存在であると同時に、生存手段をも直接教えてくれ
る存在であった。子は親を、生存上の欠くべからざる存在であると考えると同
時に、親に対して、恩恵という意識を自然発生させた。この恩恵という意識が、
すべての物を大切にするという心を、自然発生させた。親と子は、いつくしみ、
いつくしまれ、いつくしみ合うという関係に置かれた。どちらかが傷つけば、
あるいはどちらかを傷つければ、相互に傷つくという考えを自然発生させた。
この考えが、他の人々あるいは自然へと延長していった。必然的に、ごく自然
に、人間はこのような考えを持つべき状態下に置かれた。

 しかるに、科学文明の進歩はこの必然性を打ち砕いた。子は親から教わらず、
調教の上手な教育専門家、あるいはコンピュータから教わる。さらに日進月歩
の科学技術がこれに拍車をかけ、子供を追いかけ回す。子が親に何か問えば、
先生に聞け、百科事典を見ろ、コンピュータに聞けとなる。社会のあらゆる年
齢層で知識の逆転現象が発生し、人々を不安に掻き立て、人間関係をゆがませ
る。この関係に気付かぬ民族は、見よ、「精神的流浪の民」になってしまった。

 子にとって、無償でじかにいつくしまれたという体験は、深く脳に刻まれ、
これがその人の心となる。そしてこの心は、いつくしみ、いつくしまれ、ほほ
えみ、ほほえまれという関係を快く感じ、喜びであると感じるようになる。

 つまり、『心が心をしてその心自身を喜ばしむ』、これが天来の幸福である。
世の中の関係が、権利と義務、労働と賃金等に置き換えられてゆくとき、天来
の幸福は失われ、人はますます外部に幸福なるものを捜し求めるようになる。
そしてついには、精神的流浪の民に成り果てる。

 精神的流浪の民は、宗教を、主義を、思想を、哲学を、倫理を、生み出す。
しかしこれとて、しょせん「根無し草」にほかならない。

 精神的流浪の民は流浪を続けるしかしかたがない。

 子にとって親の親の親・・・・・は大自然である。そう、人間の生みの親は
母なる大自然である。よって、大自然を親とせず、大自然から離れ、大自然を
傷つける民族が精神的流浪の民となるのは、自然の理である。自然をいつくし
まぬ民族が、精神的流浪の旅を続けるのは、自然の理である。

 実にあわれな。